So-net無料ブログ作成

16 写真と歴史と文学に(少し真面目なお話) [少し真面目なお話]

 以前、私は横浜のギャラリーにて、ナショナルトラストへの理解を深めるためと自分のネイチャー写真作品にテーマを持たせるために「ナショナルトラストのこころ―植物園花色衣」という写真展を行った。
 2016年、この秋から冬(少々先のことになる)に再度、この続編とも言える「For The National Trust"at a cafe-gallery-admiring a beauty of nature」『植物園花色衣・横浜花色衣』という小さな写真展の開催を模索し始めた。一人で立案、計画、準備できる程度の規模を想定しているからかなり小規模だ。しかしこのテーマには私の自然思想の思いの中心となる「写真」、「自然」、「文学」、「歴史」が詰まっている。夜景や景観のように多くの作品を大きなサイズでプリントすることはないのだが(最大でもA4程度)、私にとっては、同じくらいの重さがある内容だ。サブタイトルにある「自然美を愛でること」は、そのまま前述した四つの柱を包括したタイトルになる。
 今回は東京の何処かでと考えている。もしかすると多くの部分で調整がとれなくて、遅れ気味になるかも知れないが、計画としては次の秋から冬のどこかを予定している。しかしこの手のものは流行に迎合したり、話題性を考えるものではなく、やり続けることが大切と自負しているので、ひっそりと進めていく。興味のある人が来てくれれば良いのである。
 今回はその中心となる思想観をあらわした文章を、過去にしたためたものの中から掘り起こして改稿することにした。ジョークも何にも出てこない真面目な文章なので、飽きてしまったときには自由にリタイアして欲しい。押しつける気など、端から無いのでお気に召すままに願いたい(笑)。


  思いつくままに文字を進めるおもしろ気分の随筆とはいえ、内容に事実性を保つことも必要なので、今回はある程度は下調べをした知識を加えて述べていきたい。もちろん不肖未熟の素人知識が出来る範囲でとなる。つまりは初めてナショナルトラストに興味を持った方や名前程度の理解の方のために、私の説明の出来る範囲でという条件付きだが、分かり易くナショナルトラストの活動の特徴を時代を追って解説していくということだ。
 その設立にはイギリスの歴史の中での出来事と密接な関係がある。時は「自然」と対峙される事柄としての「乱開発」や「公害」といった人為的な破壊活動が初めて歴史上登場した頃である。この団体が設立された 1895年当時のイギリスは、教科書で読んだ記憶がある方もいらっしゃるだろうが十八世紀末からの「世界の工場」と謳われた産業革命を経て、資本主義経済社会体制がほぼ確立した時代である。しかもビクトリア期は地球上のほぼ四分の一がイギリスの息のかかった土地であった。経済的にも開発、生産、貿易、技術躍進という現代社会の礎が登場する黎明期でもあった。世界の物流がイギリスを中心に栄えていた時代を意味する頃で、家内制の工業形態から企業の工場で生産をするという大量生産社会へと世の中が変革をしていった時期である(オートメーション化を見慣れてしまっている現代の私たちにとっては大量という言葉は大げさに聞こえてしまうが、家内制の工業形態からすれば大きな躍進の時代であった)。
 そんな時代にサー・ロバート・ハンター(Sir Robert Hunter 1844-1913)、オクタヴィア・ヒル(Octavia Hill 1838-1912)、ハードウィック・ローンズリィ(Canon Hardwicke Drummond Rawnsley1851-1920)の三人が乱開発の自然破壊から国土のみどりを保護することと自然環境の保全の立場からこの団体を誕生させたのである。ハンターとヒルは「入会地(共用地)保存協会」というもともと土地を保護、保存するという見地から、ローンズリィは湖水地方の自然保護団体の市民運動という立場からナショナルトラストの趣旨に至ったと一般には言われている。
 三人の素性を簡単に紹介していく。まずハンターは弁護士。とりわけ専門は郵政事務弁護で、郵政大臣のもとで郵便局を助ける13人の弁護士の一人だった。30年に渡り郵政事務弁護士、公務員職として国家のために働いている。24歳で「入会地保存協会」の懸賞論文に応募したのをきっかけに入会地での土地権利に関する弁護も扱うようになったという。この時代の入会地の多くが所有者のはっきりしないままで、なおざり状態にあり、土地所有者に関する権利のあいまいさが目立っていた。この混沌とした状態を逆手に取って権利を主張する多くの不心得者が事業者として活動していた。そして権利のはっきりしないうやむやな状態の土地を横取りして開発の矛先にしてしまうことが多かったという。いわゆるイギリス史でいう「囲い込み(enclosure)」現象である。
 この時代の「囲い込み」は歴史的には数世紀前に領主貴族が行った没収領地の「囲い込み」と区別するために「第二次エンクロージャー時代」と呼ぶことも多い。身寄りのない権利者不在の入会地は資産家や開発業者の格好の標的にされ、彼らの手に落ちたこれらの土地は環境破壊へと繋がるケースが多かったようだ。こうした入会地の諸問題を法律的な解釈から明確にするという仕事が、郵政弁護の仕事の次に行うことになったハンターの二つ目の仕事であった。こういった事件のケースから開発業者たちの手に入会地や森林が落ちないためにも、彼は何らかの新しい対策をとる必要があると感じていた。そこでハンターは入会地を開発業者たちの実効支配から自然保護のために必要な土地を勝ち取るための秘策として思いついたのがおおよそ現在のナショナルトラスト運動にあるような概念であったという。だが彼一人でこのような大事件、大多数の案件を抱え込み、さばききることは物理的に不可能である。そこで彼が信頼し、相談したのが当時入会地協会において事務の仕事をしていた顔見知りのヒル女史であったという。
 ヒルはナイチンゲール(Florence Nightingale 1820-1910)と並ぶイギリスの女性偉人としてたたえられることがおおい人物である。彼女は都市生活における貧困住宅問題に精通する人物で、粗悪、劣悪な都市の住宅環境に対する改良や改革が必要であるというイデオロギーを温存させていた。
 彼女のその考え方の中では、貧困社会における悪循環の末端部分が都市の劣悪な住宅事情であるとみていた。そして発端部分である入会地の乱開発の問題を改善しないことには、この貧困問題の負の連鎖を駆逐できないと考えていたようだ。彼女の言うその負の連鎖の悪循環とは以下のようになる。入会地の「囲い込み」により農民が耕作していた権利のうやむやな土地を言葉巧みに、あるいは強引に実効支配を行って奪う。この行為は彼らの生活を圧迫するだけでなく職までをも奪ってしまうため、為す術を失った多くの農民が失業者となり、僅かな希望と職を求めて都市部への移住を決断せざるを得なくなる。そして次々と失業した農民たちが都市部へと押し寄せてくるというものだ。当然、それだけの人数を受けいるだけの住宅数を確保できない都市部は、住居とはいえないような建物までも家屋用の物件として提供せざるを得なくなり、小屋や東屋のような生活に適さない家屋まで使用し始める。ここに衛生面でのインフラなどが全く追いつかず、劣悪な環境とその集合体である社会を生み出すという結果が生じる。このような都市部の非衛生的な住居と劣悪環境の社会問題の根絶と対策には、まず農民たちが生まれ育った土地を離れずにすむ状況をつくることにも一因があると考えたのだ。
 また彼女はオープンスペースという概念を都市に取り入れるということも同時に考えていた。田園地帯をかっぽした自然児であった実体験から共有の緑地の存在にも早くから着目していた。都市公園や緑地、公共施設に付随する公用地のことである。こういった現実と向き合っていたためヒルは、ハンターが考えた入会地問題と自然保護問題を含むこの活動への呼びかけに賛同した理由があったという。
 またヒルがナショナルトラストにおいて行った一番の功績と言われているのが、その広報活動や人脈作りである。その中でも大貢献とされるのが、ナショナルトラストの重要性をしっかりと説明して、今上陛下だったビクトリア女王(Victoria 1819-1901 位1837-1901)時代の貴族ウエストミンスター侯爵にご理解していただいたというエピソードである。この人物は後に役員(議長)としての協力もしてくれるなど信頼できる人物として評価が高くなった。ヒルは社会的に誉れも高い王侯貴族に対して参加と賛同を取り付けたことで、彼女の手腕と人柄を察することが出来るし、王侯貴族もこの活動の主旨を理解して、協力を通して、常に注目してくれるようになった大変好ましい出来事であった。その様子は書簡にも残されおり、王女が何か協力できることが無いかと自らお尋ねになっていたところからもうかがい知ることが出来る(ベル著『英国住宅物語』・279頁)。
 三人目のローンズリィはチャリティ活動で知られるようだ。しかしそれ以前に彼の活動の原動力となっているのは宗教的な慈悲、つまり教会関係者としての使命感といえる。後に述べるがその人徳がナショナルトラストの理念を支持した作家ポターの心の支えとなったことも有名な話である。彼は地元である湖水地方(The Lake District)に近い教区の町ケズウィック(Keswick)にて牧師をしており、その傍らで多くの文化活動などに参加している人物でもあった。
 ローンズリィ自身はもともとハンターたちと合流する以前から環境保護活動に力を入れていた人物であった。このときは地元湖水地方の鉄道敷設によってロドアの滝と周辺の景勝地が破壊されるという困った問題に直面していた。自然保護の中でも景観保全の部分である。ここで興味をひく部分は、現在は温室効果ガス削減、二酸化炭素排出をしない最も環境に優しくエコロジーの最先端の輸送機関の代名詞である鉄道が、当時はまさかの逆の立場で見られていた時代があったということだ。時代が変われば見方も変わるという良い例である。
 このローンズリィの登場で、英国美術界の「ロマン主義」から「印象主義」時代の立役者、美術評論家であるジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)がナショナルトラストと関連してくる話に繋がる。いわば芸術と自然美の融合である。ではその後のナショナルトラスト設立過程の話に合わせて進めてみよう。
 ハンターもヒルもこの活動が重要と認識できて、理念だけでなく実際の活動計画も二人の中でかなり綿密に組み立てられてきた頃である。本来であれば、すぐにでも取りかからないといけない仕事だと言うことは双方ともに重々承知していた。だがなにぶん互いにそれ以外の仕事というのも当時はかなりの数をこなしていた。自由に動き回れるだけの余裕を持っていなかったのだ。それ故に自分たち以外にもじっくりとこの仕事に取りかかってくれるような、腰を据えた他の担当者というものがどうしても必要となっていった。
 さてこの湖水地方はもともと芸術家たちに愛されていた場所だった。それだけにこの問題は当時の美術界の重鎮達たちの耳にもすぐにはいったようで、そんな局面を打開すべく登場したのが先に取りあげた美術評論家ジョン・ラスキンである。彼は活動の趣旨を理解して手助けをしている。この行動自体はナショナルトラストの設立話全体の中からすれば、ほんの一瞬に過ぎないものであったが、ローンズリィをヒルへと引き合わせるという重要なパイプ役を担っていたのだ。
 ヒルとラスキンはこの時期に突然知り合いになったというわけではなく、もともと面識のある間柄で絵画を通した師弟関係だった。ヒルがまだ十代の時の1855年に、ロンドンにあったラスキンの絵画アトリエで約九年間にわたり絵画を学んでいる。しかしその後の彼女の仕事をなぞると、ヒルがラスキンから学んだものは、どうやら絵画だけにはとどまらなかったようだ。彼女の活躍から見れば、環境問題や思想観なども一部受け継いでいるのが見えてくる。ただしさらに後の晩年になって癇癪持ちで有名なラスキンはヒルとのあいだでもいざこざを起こしたようで、それ以後の交友関係は以前ほど上手くいかなかったようである。
 まだ良好であった交友関係の頃に、ヒルへとラスキンが行った自然保護を謳うローンズリィの紹介は、見方を変えれば必然的な出会いだったのかも知れない。これによって、結果的にラスキン自身はいわばナショナルトラストの主翼を担う三人組の接着剤のような役割を果たすことになった。もちろんラスキン自身もローンズリィ同様に湖水地方を愛していた人物で、1869年オックスフォード大学教授就任の三年後に湖水地方に転居している。そしてこちらローンズリィとの友情の方は生涯消えることなく、ラスキンの没後にローンズリィは彼への敬意を讃えこの地にラスキン美術館を設立している。
 その後1895年、先に記したように、ウエストミンスター侯爵が議長として席に着き、ナショナルトラストは産声をあげることになる。会長はハンター、事務局長はローンズリィという役員人事であった。またこのナショナルトラストという名前には、ヒルの思いが込められているという。彼女はハンターへの書簡の中に団体名に関する自分の意見を残しているという。それは「カンパニー company」よりも「トラスト trust」という単語の採用を薦めている。その理由はこの団体のあり方や方向性において、よりチャリティ(慈善事業)の色彩を強く打ち出せることへの大切さから来ることだった。
 またヒルはもう一つこの団体の活動についても残しており、「募金募金」とやかましくお願いしてはいけないということであった(ベル著前掲書・278頁)。こういったお願いは寄付する喜びを台無しにしてしまうという危惧を考えていたからだ。私たちが現在考えているような、人それぞれの参加方法があるという考えとほぼ同様のことが、設立当初のヒルの考えの中にも存在していたのである。現代人である私たちは、ヒルのこういった人間性にも共鳴できる部分を見いだせる。
 また「ナショナル」という単語に関しては、ナショナルトラストについてのパンフレットやホームページを開くと、ほとんど全ての紹介文や説明文などでも述べられている通り、国家とか政府など政治的な意図を意味するものではなく、そこに住む「国民の(もの)」を意味しているという説明が加えられている。これが私なりに調べたナショナルトラスト設立までの過程と概念である。概略ではあるが、微力ながらこの団体のことをご理解いただけたかと思う。

 次にナショナルトラストの普及に協力した、あるいはゆかりのある文化人をみてみよう。ナショナルトラストの名前を一躍有名にした人物ということでまず挙げられるのが、ビアトリクス・ポター(Hellen Beatrix Potter 1866-1943)であるという意見は多いだろう。ポター自身は周知の通りだが、『ピーターラビットのおはなし』(1902刊)というシリーズ化した絵本の作者と言うことでも有名であるし、生物(この当時は博物学)に対する研究活動について知っている人もいるだろう。植物相の研究活動を在野ながら行っており、代役を立ててではあったが論文発表を行っている。世の中が女性に対してもう少し早く門戸を開いていれば、植物学者ポターの誕生もみることが出来たかも知れない。
 この当時十八から十九世紀頃にかけての時代背景というのは、プラントハンターが探検家さながらの旅行に出かけて、珍しい植物などを入手してくるという小規模な「大航海時代」のまねごとがはやっていた。彼らの活躍によりキュー植物園(Kew Gardens)には世界各国多様な地域の植物が所狭しと並んでいた。おまけに「ロマン主義」や「国民主義」といったナショナリズム風の概念がヨーロッパを中心とした国々に流行していたために、各国がこぞって国土の象徴物ともとれる自然生育している植物を調査していた。これは自国の風土の特色を知るためにという意味もかねていた。さらにはその延長線上で、科学的に優れた百科事典を制作できるだけの国力を有する国家という他国への先進性のアピールや優位性を際立たせる役割なども果たしていた。そんな為政者や指導者の意図もあったのだが、一般人にはそのような威厳や大局観などは無縁であるから、植物や動物に対する素朴な興味や愛着と、博物学の急速な発展に伴う、今で言うところの社会教育施設に相当しそうな施設も拡大してもてはやされた時代であった。
 そんな科学時代到来の前夜に上梓された、カラー写真の無い頃の百科事典のために重宝したものが絵画である。勿論植物の現物の保存もなされてはいたが、土や気候が合わずに根付かなかった貴重な植物はドライフラワーにするか、保存薬品漬けにするかの選択で、生花の状態の色や形をそのままに閉じ込めることが出来なかった。その際に図版に使われていたのが写実性に優れた植物画、ボタニカルアートである。もちろん時代は変わって現代ではそんな歴史上のいきさつなどはほとんどの人は知るよしもない。のんびりと植物園や公園などでボタニカルアートの流れをくむ美しい絵画をかいて余暇に楽しんでいる人の姿をよく見かける。本来の役割通り、自然や植物に親しむ人々をみどりの園へと誘ってくれている生涯学習のお手本のような光景がそこにはある。
 さてそのポターとナショナルトラストの関係の話を進めていこう。まずはポターの中にある植物や動物への思い、自然観やその思想のバックボーンについてである。現在観光地として名高い湖水地方には、ご存じの方も多いが彼女の作品の中にある文学風景がそのままの姿で残されている。また彼女の生活に直接ゆかりのあるような重要なプロパティ(保護財産)も数多く残されている。この場所はポターの愛した湖水地方の風景が、当時のままの姿で保護されているナショナルトラストの代表的な仕事としても高く評価を受け、紹介されることも多い。
 もともとの彼女と湖水地方とのつながりはポターが十六歳の頃にさかのぼる。弁護士として名を馳せた父を中心に、富裕層のビアトリクス家は毎年避暑地として、スコットランドのダルガイズに別荘を借りていた。ところが諸事情で彼女が十六歳の年は湖水地方のウィンダミア湖のほとりの城館を借りることになった。地元では環境活動家として、すでに名士となっていたローンズリィはビアトリクス家にも出入りする間柄にもなっていた。そこで彼は絵画を好きだったポターの良き相談相手になったといわれている。もともとポターの父親も水彩画やデッサンをする人であったから彼女の趣味は家族の間でもおおらかに受け入れられたようである。
 ラスキンやヒルとのつながりを持つローンズリィは美術に対する造詣も深くポターの絵画の世界を理解し、アドバイスを与えることもあったという。ポターが病の少年のためにと初めて描いた動物の絵本をローンズリィが見たとき、その出来栄えに感心して公に発表をすることを勧めている。彼の意見に後押しされて自信を持ったポターはこの絵本のコピーを六冊ほど作り、国内の版元六社に送っている。ただしこのときの作品は残念ながら全て不採用となっている。
 その後出版をあきらめず、彼女は自費出版という形で絵本の制作に臨んだ。初めて彼女の作品を出版しようと考えたのは、ポターファンならご存じのウォーン社である。彼女の自費出版で発行した『ピーターラビットのおはなし』を見て、メジャーデビューの可能性を探ってくれたのだ。このときのウォーン社の編集者が商業的な出版のマターとして、ポターにふたつの提案をしている。そして彼女はそれらふたつの条件を了承してクリアしている。ひとつはローンズリィの書いた難しい詩の形式を改めて、口語的な普通のお話形式にすること、そしてもう一つがモノクロ絵画をやめて当時注目を集め始めていたカラー印刷にすることだった。この二つの条件をクリアしたポターの作品は大ヒット作品となって、世に知られることとなった。
 このときの編集者こそ、ポターの伝記などでもたびたび登場する編集者にして、1905年に他界した薄命の婚約者ノーマン・ウォーン(Norman Warne)である。既に知られているようにこの二人の恋は、つかの間の初恋、そして短い婚約期間とともに陽炎(かげろう)(蜉蝣とも)のように儚く露に消えてしまう。このときのノーマンとの死別の悲しみから彼女を救ったのも湖水地方の自然とローンズリィ夫妻の温かい心だったという。この同じ年に彼女は湖水地方のソーリー村の丘の上(ヒル・トップ)農場を購入して思い出の地に移り住んだ。自らも酪農を実践して、ローンズリィのアドバイスから稀少品種であるハードウィック種の羊を飼っている。そんなわけで彼女の生涯における人生観のなかには自然に対する慈しみと愛情、それを保護していこうと思う気持ちが芽生えても全く不思議ではなく、ごく自然な流れてナショナルトラストの活動を援助したといえるだろう。
 こうして今日多くのマスコミや雑誌の観光ガイドでもたびたび紹介されている風景であり、絵本の中に出てくる家屋や農場などがそのままの姿で見ることが出来るソーリー村の「丘の上(ヒル・トップ)」と呼ばれる場所のプロパティが誕生したのである。今もなお自然保護や環境活動などのナショナルトラスト関連の人々だけでなく、よく伝えられるのはピーターラビットや童話ファンの聖地としても人気スポットになっているという話だ。しかも観光シーズンには半分以上が日本人という日もあるくらいで、私たち日本人にとっても身近な場所となっているようだ。こういった人たちの何割かがまた帰国後にナショナルトラスト活動への関心を少しでも持ってもらえれば、ポターも白玉楼から笑みを込めた賞賛の拍手を贈ってくれることだろう。その後ポター自身も1912年に用地管理などの仕事で知り合った仲間の弁護士ウイリアム・ヒーリス(William Heelis)との婚約、結婚へと進む。そして1913年以後は作家としての仕事よりも、農場の管理者、地主の仕事がメインになっていったという。その後1930年頃には小児疾患に対する援助や環境保護活動に本腰を入れて、社会への貢献という大きな仕事へととりかかっていった。そして彼女の没後に夫ウイリアムは遺言にしたがって、生前彼女が絵本などの収入を充てて入手した広大な十六平方キロメートルを超える土地をナショナルトラストへと託した。これによって文学作品が作り上げた自然を愛するための理想郷が今日そのままの形で湖水地方に存在している。もちろん現在もナショナルトラストのもとで保存活動と維持管理が行われているのは言うまでもない。
 最後にデータでのご紹介になるが、現在の英国のナショナルトラスト運動については370万人の会員、6.1万人のボランティア、25.5万haの田園風景、1141kmの海岸線、350以上の歴史的建造物と庭園を管理する英国一の自然保護団体であるということだ。そして国民の17人に1人がナショナルトラストの会員であるということは、自然保護や環境先進国としての英国の国民性をうかがい知るひとつの目安となる。よく言われている一人の一万ポンドよりも一万人の一ポンドが大切であるという証でもある(季刊『ミドリ』81号 関健志「美しい風景を永遠にナショナルトラストの軌跡」 かながわトラストみどり財団2011年 の数値を転記させていただきました)。


 この文章の掘り起こした後のまとめに、あらためて感じたことを述べておくと、横浜山手地区の西洋館がポターのヒルトップのようにいつまでも修繕されながら、市民、県民や観光客に愛され続けることを願っている。そしてここに記した内容は、既述のように「写真」、「自然」、「文学」、「歴史」が凝縮された事象であることもおわかりいただけたと思う。ナショナルトラストに参加しなくても、その意義だけでも分かっていただければ筆者は満足である。
 ちなみに秋の写真展の方は相変わらず花が中心の構成を予定している。興味がある方は頭の片隅にでも残しておいていただければ光栄である。
 末尾ながら本年もよろしく。いい年にしよう。
MasamiNARUSE


おまけ
参考にした図書(本文中掲出していないもの)
小野『英国ナショナルトラスト紀行』・木原『ナショナルトラスト(新版)』・傳農/辻丸『イギリス湖水地方』・バカン(吉田訳)『素顔のビアトリクス・ポター』ほか。詳細な部分での誤用、誤解釈は乱読癖の拙者の未熟さです。合わせてご了承いただき、お詫び申し上げます。

IMGP051025p.jpg

IMGP064725p.jpg

IMGP056725p.jpg

IMG_327825pcut.jpg


nice!(2)