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29 写真と自然と文学に(少し真面目なお話2) [少し真面目なお話]

 今回は話を十九世紀から始めよう。「おっ、やる気だな!」などと思っている方には残念であるが、このブログはいつも通りである。ただ二つの人生、二人の人物に沿ったお話である。
 モンゴメリとポターは、おおよそ時代的に重なる人物である。今風に言えば、おしゃれなモダンガールのモンゴメリと、素朴な山ガールのポターである。この二人、もちろん共通点は文学作家ということだ。しかしもう一つ共通点がある。これが時代の共時性から来ているのかもしれないが、写真や絵画を通した自然描写を持つクリエーターのなのだ。
 正直に申し上げると、申し訳ないが両者の文学作品を真剣に読んだことはない。ななめ読みだ。あわや父ウサギと同様、マクレガーさんの畑にいたずらで入って、ミートパイにされそうになったエピソードで始まるポターのお話し。そして男女を間違えて、孤児院から引き取られ、級友たちに赤毛を馬鹿にされて男勝りにお転婆をする少女のエピソードがモンゴメリの物語であるということは知っているが、それ以上の知識はない(ファンのみなさん、ただの痴れ者と思ってお許しを!)。
 あのマーク・トゥエインが『赤毛のアン』を絶賛したというエピソードが残っているのだから、その才能は素晴らしいものであることに間違いない。私にはこのような素晴らしい物語は、残念なことに「猫に小判」と等しいものなのだ。
 さて、私の興味の対象は二人の生きた時代背景。つまり後背となる時代の共時性や当時の文化についてだ。そこがこのブログの主題である写真や自然と一致する扱いどころだ。
 ポターは1866年、モンゴメリは1874年に生まれている。八歳違いということは、先に述べた通り、ほぼ同時代を生きたと言っても言い過ぎではない。かたやイギリスの湖水地方で、かたやカナダのプリンスエドワード島、キャベンディシュというのどかな地域で多感な少女時代を送っている。
 再度換言すると、今回この短い文章の中でご紹介するのは、両者の文学作品ではない作品である(笑)。相変わらず着眼点がずれていると自分でも思う。文学作品の中身にふれれば、皆が関心を持つのだろうが、それを扱うおつむがないのである(笑)。そういうのはもっと優秀な人に任せておこう。
 まずこの時代、写真は高尚な趣味として、富裕層の余暇を過ごすための芸術として親しまれたことである。また知識人のたしなみの趣味として、この当時は撮影から現像までの全行程を行うことが趣味としての醍醐味であり、当然のことのようだ。きっと忙しかったことだろう。F.S.アーチャーによって1851年発表された湿板写真の場合なら、感光溶剤をガラス板に塗って、溶剤が乾かないうちに撮影を済ませなくては像が出てこないはずだから大変。ただし露光時間は十秒前後しかかからなくなり、大幅な短縮となった。
 続けておおざっぱな技術史と照らし合わせてみると、1871年には英国で乾板も登場。そして1888年には米国イーストマン社でコダックの量産式ロールフィルム型のカメラが発売され、富裕層、職業人を中心に好調な売れ行きだったようだ。
 例えば、ポターの父、ルパートはかたわらとはいえ、アマチュアの写真家、素描画家である。このことは以前にも少し触れているので、覚えていてくれているかもしれない。趣味の範疇ながら、彼女の土台となる思想観、自然を愛する、芸術を愛する素養がしっかりと身についている家であった。
 モンゴメリも、やはり覚えている方もいるかもしれないが、以前私がやっていたbotにも述べていた通り、生涯の趣味が写真だった。まだ写真家という職業が存在しない時代だ(ただ技術的な側面の写真師という職業はすでにあったはず)。しかもコダック社のフォトコン審査員まで引き受けてしまう熱の入れようだ。おそらく満を持して、先に挙げたロールフィルム型カメラの普及も一因となり、一部加味されたうえで、一般的な写真の普及状況から来ている依頼の仕事と推測される。そう考えれば、二人は自然に抱かれた風景をバックボーンに持った文学作家であり、自然児の要素を大人になってから作品に生かしているというのが、優秀なおつむを持たない私にもすこしだけ理解できる。
 どのような着眼点かというと、ポターは林の中ではきのこや動植物に興味を持っている。これは有名な話で、丁寧なカラーの絵と研究成果を残している(ここで菌類の研究と記してもいいのだが、個人的には菌類研究というと南方熊楠(みなかたくまぐす)を思い出してしまうので、あえて、きのことしておく)。
 そしてモンゴメリは自宅近くの白樺の林を「白の貴婦人」とニックネームをつけて、その風景を写真にも残しているのである。他にも「恋人の小径」や海辺の月など、光量を考えた実験作品なども残している。やがてそれは映画へのあこがれにもつながっていたようである。
 当時の識字率や社会性などを重ねて達観すると、彼女たちはウルトラ級のお嬢さまかもしれないのだが、病弱なポターや祖父母に引き取られて育ったモンゴメリは、決して精神的な部分では満たされたわけではない。心にどこかウィークポイントを持った少女だったのだろう。そういった心に空いた風穴を癒すべく、幸せを探すために、自然との対話や調和の手段を使ったクリエーターだったのかもしれない。
 そして気休めに、作品の中に出てくる登場人物(ポターの場合はほとんどが人ではなく、ウサギや動物などの擬人化だが……)に子供じみたいたずらや小さな冒険心を宿させている。彼女たちの作品に出てくる共通の決して「大人が思うような物わかりのいい子」ではないが、自然の中で自由に生きる登場人物なのだ。きっと物語の中、そうさせることで、自分たちの幼少期からの苦痛や悲しみを乗り越えた想像力で表現したのであろう(…と私が勝手に思う感想である)。
 十九世紀から二十世紀初頭には当然、アロマセラピー、森林セラピー、アニマルセラピーなどは理論上確立されていたようには思えないが、後付けの理屈で考えれば、彼女たちは立派にネーチャーフォトグラファーやナチュラリスト(自然愛好家)だったりするわけで、自然を癒しの道具として使いながらアートを表現していたのだろうと個人的には思ったりもする。
 どこか子供じみた物語の作り手だったお嬢さんたちも、やがては病気の子供たちを救う運動や勲位を授与されたりもすることになる。そう、立派な大人の責任を持つ女性へと変わっていくのである。もちろんポターについては、ナショナルトラストにも関係してくる。
 時代を経た今、イギリスのヒルトップ農場も、カナダのグリーンゲイブルズも史跡に認定され、保存活動が行われている。そして世界中にファンを持つ大作家として、今もなお愛され続けている二人だ。ここに写真と自然と文学に満ちた話題がある。
 余談になるが、アップ後に思い出したので付け足しておく。『みつばちマーヤの冒険』の作者、ドイツのボンゼルスも1881年生。ポターとは15年ほどの差なのでほぼ同時代といえる。彼もまた自然を愛した作家だし、何度も再放送をしている番組なので、三十代、四十代の人にはテレビ漫画を覚えている人もいるかもしれない。当時は文学作品のテレビ漫画の多い時代であった。
 では最後になるが、まとめといこう。今回は、世間話のていで、市井(しせい)の雑談として読んでいただければと思ってつづった、凡人である私の描く偉人伝である(笑)。普段使わない頭使うと疲れるので、この手の話はたまにだけしよう。
 ちなみに私はどちらのメモリアル・プレイスにも行ったことはないし、行く予定もない。でも知の宝である二人の作家に尊敬の念は持っている。とくに自然を愛して作品にいかしている点では、お手本にしたい人物たちである。愛すべき大作家ポターとモンゴメリに乾杯!

※写真は以前、東京渋谷で開催したポターの原画展の入場口。日本における過去最大規模のポターについての資料展示とのこと。

peterrabbit.jpg

参考資料
三室・池野谷他『モンゴメリと花子の赤毛のアン展オフィシャルブック・モンゴメリ編』図録 ダブル刊 2014年
河野監修『ビアトリクスポター生誕150周年ピーターラビット展』図録 東映刊 2016年
バカン(吉田訳)『素顔のビアトリクスポター』絵本の家刊 2001年
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28 私流よこはまの花便り5 [私流よこはまの花便り]

 今回の花便りは、天候にも恵まれた日となった。花景色としてもいい構図があり、このうちの数枚を今度のミニ写真展(写真展のお知らせは第29回のブログをご覧下さい)でも展示しようと思っている。
 例えば、JR石川町駅から坂を上がったイタリア山庭園にあるブラフ18番館。この洋館の庭先にあるサルスベリの木が見事な花をつけている。一緒の構図に入れてあげると、ブラフ18番館が、まるで美しく装った貴婦人のように感じる一枚になったと自分では気に入っている。あともう一枚はイギリス館。どうしてもこの建物は、バラ園側からのアプローチになるので、逆光は否めない。最小限に留めるために、午前中にバラ園の花々を絡めながらの構図になった。111番館側からのアプローチだと青空を背景にしやすいのだが、あえて試みること、そこががんばりどころなのかも知れない(笑)。この角度からだとバラ園と建物が調和して、これぞイングリッシュ・ガーデンという景色が写せるからだ。
 また毎回気に掛けているのでみかんとレモンも写してみた。とりわけレモンの木は葉が黄色おび始めており、レモンの木としての特徴が出てきて良い感じだった。実のほうは徐々に大きくなっているが、大きさとしてはまだまだである。今回はアップを見送ることにした。画像が多くなりすぎたためだ。
 今回の徒歩旅行の特徴はいたるところで蝶々たちに遊んでもらったことである。正確には遊ばれていた(笑)。ふりだし地点のイタリア山庭園に向かう坂の途中では、アオスジアゲハがふらふらとわたしの前をかすめ飛んでいた。しかも「写していいよ」という感じで目の前で花に止まる。しかも長時間だ。吸い終わるとすぐに何処かに行くのだろうと思っていたら、もっとわたしの目の前に寄ってきて止まってくれた。こんなに気を許してくれた蝶々君は初めてである。蛍光色の鮮やかな青のラインが男前だ(?)。
 続いては山手99番地緑地で、アゲハチョウである。彼女(?)もふらふらとわたしの前をカップルで飛んでいる。ちなみにアゲハの雌雄区別は難しいらしい。素人のわたしには到底不可能なので、個人的な思い込みの比喩や擬人法で書いている。同時にヒョウモンチョウもやってきた。アゲハが飛ぶのは百合の花目当て。とりわけ野山などではオニユリやコオニユリが咲く季節である。すると今の季節は盛夏まっただ中ということになる。山椒の木に食らいついてさなぎになる彼らが殻を破り自由に解き放たれた季節だ。
 写真にはおさめられなかったが、クロアゲハも飛び交っていた。ゆらゆらとまるで一杯ひっかけた何処かのお父さんような飛び方だ。おかげでシャッターを切ることが出来なかった。
 ここにアップした蝶の画像は少しトリミングしてある。持参のレンズの焦点距離も理由の一つ。また加えて、近づいてきてくれたとはいっても、そこは蝶である。みつばちほどではないにせよ、人間との距離感に限界はある。さらにもう一つ言えば、昆虫を撮りなれているわけではないこともある。
 ではそんな蝶たちと戯れて、なにを今回は言いたいかというと、横浜という大都市の中心地区でも花が咲き、蝶が飛び交っている自然を感じさせてくれる光景を目にすることが出来ると言うことなのだ。とりわけイタリア山庭園と港の見える丘公園は、花を植生している数が大幅に多い。ぜひ夏の美しい花々を愛でて欲しいという思いを伝えている。元町公園や山手公園は春のサクラがあるので、あちらは春に愛でる公園。対してこちらは夏に行ってみたい公園ということになる。
 最後になるが、写真のヒマワリはアメリカ山公園のもので、まだ一輪しか咲いていなかった。あと一週間もすれば、花が出そろいそうである。ここのヒマワリたちは少々のんびり屋である。そしてお花畑と氷川丸。美しい花々が咲き、潮風かおる山下公園もいい雰囲気であった。
 連日三十度を超える暑さ。日陰で調整をとりながらの撮影となったが、やっぱり花たちとの出会いは楽しいものだ。近年は「横浜花色衣」の作品を充実させるためにショット数を増やしている。今回は「植物園花色衣」と合わせての展示だが、近いうちに「横浜花色衣」のみの単独展になるように数を揃えていきたい。やはりネーチャー写真は楽しいものである。


追記 八月十七日に横浜山下公園の氷川丸が重要文化財に指定されました。おめでとう!
詳しくはこちらへ http://www.nyk.com/rekishi/

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27 私の自然写真入門書 [写真 自然]

 文章が間に合わないと思ったため、いちど別の文をアップしかけたのだが、何とか写真展の主題に沿った内容の文章が間に合ったので、アップした文章と差し替えた。もし運よく(?)前の文章を読んでしまった人は忘れていただきたい。いずれまたネタに困ったとき、使いまわす可能性がある。入れ替え中の作業風景だったということで(笑)、忘れてしまおう。写真だけではなくて、頭の中まで額装した花がちらついている。あれやこれやと思案にふける真っ最中である。
 さて本題といこう。いまも後生大事に私の本棚に一冊の本がさしてある。『花の写真の撮り方』というストレートなタイトルの本だ。成美堂出版から出ている実用書だった。なぜか写真やカメラのコーナーになく、実用書コーナーに置いてあったところがすごく気になって入手した経緯がある。
 これをその書棚に置いた書店の店員さんはとてもこの本のことが分かっていたのかなと思った。あるいはこの出版社の発行ジャンルに沿った品出しだったかもしれない。実はカメラが主体ではなく、植物が主体で半ば図鑑の要素も入った本だったからだ。図鑑的な写真を撮るネーチャー写真家といえば、山岳写真家でもある巨匠、田淵行男が有名だが、そこまで凛としてディープな感じではない。別のテイストで植物を見つめた、名作田淵のものとはまた違った味わい深いものが載っていた本である。長いこと売られていた本なのでいまでも古書店でよく見かける。フィルム時代の本なので新品で入手可能かどうかは疑問だ。
 この本と出会ったことで、私のネーチャー作品は風景を離れて草花寄りへと大きくシフトした(比率が変わったということで、風景をやめたわけではない)。
 それはこの本のコンテンツの良さが影響している。花の各部の説明や季節ごとに咲く野草の種類を章ごとに図鑑形式で解説してある。前半部分は被写体である植物の基礎知識を含めて図鑑なのである。そして後半では草花撮影に使えるカメラの種類やアクセサリーの解説までを網羅している。しかも草花に特化した説明の仕方が面白い。
 基礎部分としての一眼レフの構造から絞りやシャッタースピードの設定までは一般的なカメラの知識だ。加えてどんな交換レンズやフィルムを使うと効果的なのか、という植物という被写体にそった部分まで入ってくれるので、一冊で事が済むというものだった。もっと言えばフィルムやレンズ、アクセサリーなどの特徴を植物写真の初心者にもわかるように丁寧に書いてあるものだった。しかもコンパクトやレンズ付きフィルムでの撮影方法まで扱っている。
 この本を入手したときにすでに初心者というわけではなかったが、構成を俯瞰して、一冊の本として考えたとき、とても読者に親切な本だと感じたからだ(このころ出版関係のはじっこにいましたもので、本を見る目がそんなでした)。
 交換レンズだけについての本を買うと、自分にとっては必要のない撮影の部分に重きが置かれている場合もある。すると関係ない話題が多いということで、しだいに手にしなくなるのだが、花に必要なものと対象を絞ってくれているので、いつも手元に置くようになる。
 今となっては、自分にとっては当たり前のことでも、知識のムラや学び落とした部分があるときにとても役立った。被写体と撮影者、カメラの距離感や角度などを説明してくれるイラストも見やすかったのも参考になった。無意識レベルでいつのまにか勘違いして覚えていたことも、違う角度から学び直すと、スッとメモライズされる。そんな意味で役立つ本だった。
 青空を背景に使う方法や紅葉の木々の配置の仕方などは、この本に掲載されている写真がずいぶんとヒントになったことは確かである。自然の木や草花を自然の季節感の中で表現するという写し方が身についたように思う(自分レベルでの話だ)。この本を起点にして多くの作品をいろいろな場所で目にするようになった。そういった一連の流れの中で目を養っていく作業だったのかもしれない。そしてまだ道半ばの私である。たぶん演出っぽくない演出をするネーチャー写真とはこういうことなのだろうなと、おぼろ気ながら勝手に一人で合点をいかせている私である。
 今回の写真展でも、そんな学習成果をお目にかけることができたら、ちゃんと出せていたなら幸せである。ナショナルトラストも、自然保護も、文化財保護もそうなのだが、写真や文章、署名活動、広告物の配布などいろいろな形で多くの人たちが取り組んでいる。その中で、私が選んだのは、趣味やライフワークの中に少しだけそのテイストを織り交ぜることだった。訴えかけることもなく、無理強いもせず、素直に「植物や歴史が好きなんです」という主題を選ぶこと。あとは見た人たちご自身の選択である。そんな小さなメッセージを受け取ってもらうには、私自身、写真と文章の腕を磨くことである。「自然を愛すること」のきっかけのひとつが、私の写真展になってくれたらうれしいかぎりである。
 暑い日が続いている。写真展に来てくださる方は、会場までの道のり、お体十分にご自愛の上お越しいただきたい。



表紙はこんな感じ
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